1.「抱っこは癖になる」説の由来
1972年、心理学者メアリー・エインスワースと共同研究者のシルビア・ベルは、アメリカ・ボルチモアで26組の母子を対象に、生後1年間にわたる家庭訪問による自然観察を行いました。研究者は定期的に各家庭を訪れ、赤ちゃんが泣いたときに母親がどれだけ一貫して、速やかに応えているかを記録しました。
この研究は、のちに「ストレンジ・シチュエーション法」として知られる愛着測定法を生み出すことになる、エインスワースの一連のボルチモア研究プロジェクトの一部でもあります。
当時すでに「泣くたびに抱っこすると、その子は将来わがままになる」「抱き癖がつく」という考え方が育児の常識として広く語られており、この研究はそうした通説を実際のデータで検証しようとする試みでもありました(Bell & Ainsworth, 1972)。
2.すぐに応えることは、「自立」を妨げない
この研究では、母親がすぐ応えていた赤ちゃんほど、泣く頻度や長さが減り、身振りや声など、泣く以外の伝え方を身につけていく傾向が見られました。
ベルとエインスワースは、これを「すぐに応えることが赤ちゃんを甘やかす」のではなく、むしろ「安心感を土台にして、赤ちゃんが自分から探索したりコミュニケーションを工夫したりする力を後押ししている」と解釈しました。泣くことは赤ちゃんが持つ数少ない伝達手段であり、それに応えることは不自然なことではない、という考え方です。
「抱き癖」という発想に真正面から反証データを示した点で、当時大きな注目を集めた研究です。
3.ただし、その後の研究では別の見解もあります
2000年、オランダ・ライデン大学の研究チーム(ファン・アイゼンドールンとハバード)は、先の研究を検証し直す目的で、50組の家庭を対象により大規模な追跡調査を行いました(van IJzendoorn & Hubbard, 2000)。
そして、母親の対応と赤ちゃんの泣きの関係を詳しく調べると、予想とは違う結果が見えてきました。生後2か月頃までの期間に母親が泣きへの対応を見送った割合が高い家庭ほど、その後2か月で赤ちゃんが泣く回数はむしろ少なかったのです。研究チームは、この結果を「軽い不快感への対応をあえて急がないこと(benign neglect)が、赤ちゃん自身が不快感と向き合う力を育てているのかもしれない」と解釈しています。
ただし、この関連が確認されたのは生後半年までで、後半には見られていません。また観察研究であるため、もともと泣きが少ない赤ちゃんの母親が対応を急がなかった、という逆の可能性も否定できません。
4.「感受性」という、もう一つの視点
ここまで見た二つの研究は、いずれも「泣きへの応答の速さ」に注目したものでした。研究の範囲をもう少し広げると、また別の見え方も出てきます。
1997年、デ・ウォルフとファン・アイゼンドールンは、応答の速さだけでなく、赤ちゃんが出す泣き方や表情などのサインを的確に読み取り、状況に応じて対応する力——「感受性」に関する66件の研究(対象児4,176人)をまとめて分析しました(De Wolff & van IJzendoorn, 1997)。
分析の結果、母親の感受性が高いほど、赤ちゃんが母親との間に安定した愛着(安心できる関係)を築けている傾向が、統計的に見て「中程度」の強さで示されました。感受性は愛着の安定にとって重要な要因の一つではあるものの、それだけですべてが決まるわけではない、という位置づけです。
5.読者のみなさんへ
ここまで見てきたように、「泣いたらすぐ抱っこするべきか」という問いに、研究は単一の答えを出していません。だからこそ、毎回すぐに反応できたかどうかで、育児の良し悪しを測る必要はありません。
少し泣いていても、赤ちゃんは自分なりに気持ちを立て直す力を持っています。大切なのは、一回一回の対応の速さよりも、親子のあいだに「困ったときには応えてもらえる」という安心感が積み重なっていくことです。
ですから、パパやママが疲れていたり、手が離せなかったりするときは、無理をして駆けつけなくても大丈夫です。まず自分を休ませることも、長い目で見れば赤ちゃんとの安心できる関係を保つための大切な選択です。
6.参照した論文
現役脳神経外科医。大学病院での臨床と研究のかたわら、一次論文をもとに子育て・発達の情報を届けています。

